檸檬(梶井基次郎)なぜ、丸善に檸檬を置いた? |5分でわかる名作 #11
この話の要点
- 重苦しい気分の「私」が檸檬を一つ買い、丸善の本の頂に置いて、そのまま店を出る話です。
- 丸善で憂鬱が戻ったあと、置き捨てた画集を積み直して「城」にし、頂に檸檬を据えます。
- 本を積み直し、檸檬を残して去る行動が、なぜそこに置いたのかを読む人に問いかけます。
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解説
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梶井基次郎の短編『檸檬(れもん)』を、始まりから結末までたどります。重苦しい気分を抱えた「私」が、果物屋で檸檬を一つ買い、本や画集の店・丸善で本を積み上げ、その頂に檸檬を置いて店を出る話です。
この記事は結末まで扱います。 引用は青空文庫の本文(新字新仮名)から短く採り、原作に章分けがないため、場所は「どの段落のあたりか」で示します。
30秒で分かるあらすじ
「私」の心は、えたいの知れない不吉な塊に押さえつけられていて、以前好きだった音楽や詩もつらくなっています。ある朝、街をさまよった「私」は、寺町の果物屋で檸檬を一つだけ買います。握った瞬間から塊はいくらかゆるみ、冷たさや香りや色に、「私」は幸福を感じます。
ところが、入れそうに思えた丸善に入ると、幸福な気持ちは逃げ、憂鬱が戻ってきます。画集を抜いては開き、置き捨てるうちに、「私」は袂の檸檬を思い出します。本を積み直して「城」を作り、その頂に檸檬を据えると、さらに「そのままにして店を出る」という第二のアイディアが浮かびます。店を出た「私」は、あの檸檬が爆弾で丸善が大爆発したら、と想像を追いかけながら、京極を下っていきます。
主人公「私」と、二つの店
- 「私」:物語の語り手です。本文は名前を示しません。友達の下宿を転々として暮らし、お金がなく、体に熱があると書かれています。この記事では、作者本人ではなく、本文に書かれた「私」として扱います。
- 果物屋(寺町):「私」が知っている中でいちばん好きな店です。勾配の急な、古びた黒い漆塗りの台に、果物が並んでいます。その日、ふだんはあまり見かけない檸檬が出ていました。
- 丸善:本や画集の店で、書籍のほかに、香水壜・煙管・小刀・石鹸・煙草なども並ぶ店として描かれます。以前の「私」の好きな場所でしたが、今は重苦しい場所になっています。
- 友達:「私」が下宿を転々とする相手として出てきます。ある朝、友達が学校へ出たあと、「私」は一人取り残されます。
始まりから結末まで、出来事をたどる

図A 出来事の並び。上の列が本文で実際に起きることで、店を出たあとの爆弾は「私」の想像(破線)です。
重苦しさと裏通り
冒頭、「私」の心は「えたいの知れない不吉な塊」に始終押さえつけられています。本文は、肺尖カタルや神経衰弱、背を焼くような借金がいけないのではなく、「いけないのはその不吉な塊だ」と書いています。病気や借金がそのまま原因だとは言っていない点に注意して読むと、冒頭の重さがよく見えます。
以前好きだった美しい音楽も詩の一節も、今は辛抱がなりません。それでも「私」は、見すぼらしくて美しいものには強くひきつけられます。崩れかけた土塀、傾きかけた家並み、勢いのいい向日葵やカンナのある裏通り。そこを歩きながら、京都ではない遠い市にいるような錯覚を起こそうともします。赤や紫や黄や青の縞模様の安い花火の束、びいどろ(色硝子)のおはじきや南京玉も好きになりました。
お金のない「私」を慰めるのは、二銭や三銭の、それでいて贅沢な、美しいものです。なお、この「二銭や三銭」は檸檬の値段ではありません。そして、生活がまだ蝕まれていなかった以前に好きだった丸善も、今の「私」には重苦しい場所に過ぎず、書籍や学生や勘定台が「借金取りの亡霊」のように見えるのでした。
果物屋と掌の幸福
ある朝、友達が学校へ出てしまったあとの空虚な空気の中に、「私」はぽつねんと一人取り残されます。何かに追いたてられるように街をさまよい、二条の方へ寺町を下って、果物屋で足を止めます。
本文はここで、この果物屋を紹介します。果物は勾配の急な台に並び、奥へいくほど青物が高く積まれ、人参葉の美しさは素晴らしかったと書かれます。さらに「またそこの家の美しいのは夜だった」と、夜の店の眺めが続きます。寺町通の明るさの中で、その店の周囲だけが暗く、店頭の電燈が驟雨のように浴びせかける絢爛が、ほしいままに照らし出される、という描写です。ただしこれは店の紹介で、檸檬を買ったのは「ある朝」から続くその日のことです。
その日、「私」はいつになくその店で買物をします。檸檬はありふれた果物ですが、その店ではそれまであまり見かけなかったのです。レモンエロウの絵具をチューブから搾り出して固めたような単純な色も、丈の詰まった紡錘形の恰好も好きだった「私」は、檸檬を一つだけ買います。
握った瞬間から、始終心を圧えつけていた不吉な塊が、いくらか弛んで来たようでした。「私」は街の上で非常に幸福でした。あんなにしつこかった憂鬱が、果物一つで紛らされる。その不思議を、本文は「逆説的なほんとう」と書いています。
丸善での揺り戻し
どこをどう歩いたのか、「私」が最後に立ったのは丸善の前でした。ふだん避けていた丸善が、その時はやすやすと入れるように思え、「私」はずかずかと入っていきます。
しかし、心を充たしていた幸福な感情は、だんだん逃げていきました。香水の壜にも煙管にも、心はのしかかっていきません。憂鬱が立ちこめてきます。画本の棚の前で、重い画集を一冊ずつ抜き出しては開いてみるものの、克明にめくる気持ちは湧いてきません。それでいて次の一冊を引き出し、ぱらぱらとやっては、そこへ置いてしまう。以前の位置へ戻すことさえできません。とうとう、日ごろから大好きだったアングル(フランスの画家)の橙色の重い本まで置いてしまいます。「私」は憂鬱になって、自分が抜いたまま積み重ねた本の群れを眺めていました。
本の城と置き去り
「あ、そうだそうだ」。その時「私」は、袂(着物の袖の下の袋のような所)の中の檸檬を思い出します。本の色彩をごちゃごちゃに積みあげて、一度この檸檬で試してみたら、と。
さきほどの軽やかな昂奮が帰ってきます。「私」は手当たり次第に積みあげ、また慌ただしく潰し、また慌ただしく築きあげます。新しく引き抜いて加えたり、取り去ったりするたびに、奇怪な幻想的な城が、赤くなったり青くなったりしました。
やっとそれはでき上がり、「私」は城壁の頂きに、恐る恐る檸檬を据えつけます。
そしてそれは上出来だった。(章分けなし・後半、「やっとそれはでき上がった。」で始まる段落の終わり)
見わたすと、檸檬の色彩は、ガチャガチャした色の階調をひっそりと紡錘形の身体の中へ吸収して、冴えかえっているように「私」には見えます。埃っぽい丸善の中の空気が、その檸檬の周囲だけ変に緊張しているような気がしました。
すると不意に、第二のアイディアが起こります。檸檬をそのままにしておいて、何喰わぬ顔をして外へ出る。そのたくらみは、むしろ「私」をぎょっとさせました。変にくすぐったい気持ちのまま、「私」はすたすたと店を出ていきます。
結末:丸善は爆発したのか
爆発は起きていません。 本文の順番は、檸檬を本の頂に置く → そのまま店を出る → 街で想像を追いかける、です。
店を出た「私」は、くすぐったい気持ちに微笑みます。丸善の棚へ黄金色に輝く恐ろしい爆弾を仕掛けて来た奇怪な悪漢が自分で、もう十分後には丸善が美術の棚を中心に大爆発をするのだったら、どんなにおもしろいだろう。ここは「だったら」で始まる仮定で、本文ははっきり、それが想像だと書いています。
私はこの想像を熱心に追求した。(章分けなし・結末近く、同じ文で始まる段落)
そして物語は、「私」が活動写真(映画)の看板画が奇体な趣きで街を彩っている京極を下っていく姿で終わります。病気や借金、その後の暮らしが解決したかどうかは、本文に書かれていません。
冷たさ・香り・色・重さを読む

図B 本文に出てくる感覚。気分の変わり方と、本人のたとえの「重さ」は、それぞれ別に囲んでいます。
本文は、檸檬を食べる話ではありません。「私」は檸檬を握り、嗅ぎ、眺め、その重さを感じます。
- 冷たさ(掌):「その檸檬の冷たさはたとえようもなくよかった」。そのころの「私」は肺尖を悪くしていて、いつも体に熱があり、友達と手を握り合っても掌が誰よりも熱かった、と書かれています。その掌から体の中へ染みとおる冷たさが、快いものだったのです。
- 香り(鼻):何度も何度も鼻に持っていっては嗅いでみます。産地のカリフォルニヤが想像に浮かび、漢文で習った「鼻を撲つ」という言葉がきれぎれに浮かびます。胸いっぱいに吸いこむと、体や顔に温かい血のほとぼりが昇ってきます。
- 色(目):汚れた手拭の上に載せたり、マントの上にあてがったりして、色の反映を量ります。
- 本文は、こうした「冷覚や触覚や嗅覚や視覚」が、ずっと昔からこればかり探していたのだと言いたくなるほど、しっくりしたと書いています。
そして、短い一行が独立した段落として置かれます。
――つまりはこの重さなんだな。――(章分けなし・中盤、「私はもう往来を軽やかな昂奮に弾んで」に続く段落)
この重さこそ常々尋ねあぐんでいたもので、すべての善いもの、すべての美しいものを重量に換算して来た重さだ。「私」は、思いあがった諧謔心からそんな馬鹿げたことを考えます。重さの数字はどこにも書かれていません。測れる重さから、本人にとっての不思議な価値へ、考えが飛んでいくところです。
同じ本が「城」になるところ

図C 左は開いても楽しめずに置き捨てた本、右は同じ本を積み直して檸檬を据えた「城」。本の冊数や装丁は、絵のための創作です。
丸善で「私」がしたことを、二つに分けて並べてみます。
- 置き捨てた本:一冊ずつ抜き、開き、めくる気持ちが湧かずに置いてしまう。元の位置へ戻すことさえできない。ここでの本は、憂鬱を重くするだけの物です。
- 積み直した本:同じ本を、今度は色を見ながら積み、崩し、足し、取り去る。城が赤くなったり青くなったりし、頂に檸檬を据えると「上出来だった」。
本そのものは何も変わっていません。変わったのは、「私」が本とどう関わったかです。手に持った檸檬の冷たさや色を味わうだけでなく、自分で並べたり見立てたりすることが、重苦しさとの関わり方を変えた、とも読めます。ただしこれは読み方の一つの提案で、作者が言い切った主題ではありません。檸檬が何の象徴かを一つに決める必要もありません。
よくある問い
なぜ、「私」は丸善に檸檬を置いていったのですか?
本文の順番で言えば、まず、本の色の中で檸檬を試してみたくなり、本を積んで頂に据えました。できた配置は「上出来だった」。そのあとに、そのままにして外へ出るという「第二のアイディア」が浮かびます。最初から爆弾ごっこを計画して檸檬を買った、とは書かれていません(後半、「不意に第二のアイディアが」の段落)。
最後に、丸善は本当に爆発したのですか?
爆発していません。爆弾で丸善が大爆発したらおもしろいだろう、というのは「私」の想像で、本文も「私はこの想像を熱心に追求した」と書いています。物語は、京極を下っていく「私」の姿で終わります(最終段落「そして私は活動写真の看板画が」)。
檸檬で、「私」の苦しさはなくなったのですか?
なくなってはいません。檸檬を握った瞬間から塊は「いくらか弛んで」幸福になりますが、丸善に入ると幸福な感情は逃げ、憂鬱が戻ってきます。その後の暮らしや体の不調が解決したことも、本文には書かれていません(中盤「その日私はいつになくその店で」、後半「しかしどうしたことだろう」)。
檸檬は、いくらで買ったのですか?
値段は本文にありません。前半に出てくる「二銭や三銭のもの」は、「私」を慰める小さな美しい物の話で、檸檬の値段ではありません(前半「察しはつくだろうが」の段落)。
「重さ」は、何グラムですか?
数字はありません。「つまりはこの重さなんだな」という一行のあと、「私」は、すべての善いもの美しいものを重量に換算した重さだと、自分で馬鹿げたことを考えてみます。実際に測った重さではありません(中盤、「私はもう往来を」に続く段落)。
原文で読み返すなら、ここから
『檸檬』は章分けのない短い作品で、青空文庫で全文を無料で読めます。
読み返す時は、次の言葉を目印に探すと、動画で駆け足にした所をじっくり味わえます。
- 「その檸檬の冷たさは」:掌の冷たさ、香り、色、そして「重さ」の一行へ。
- 「しかしどうしたことだろう」:丸善で幸福が逃げ、画集を置き捨てていく所。
- 「あ、そうだそうだ」:袂の檸檬を思い出し、本の城を築き、店を出るまで。
出典
動画とこのページで使った事実・数字の出どころです。
参考にした文献
- 初出:「青空」創刊号(青空社、1925年1月)。
- 底本:『檸檬・ある心の風景 他二十編』(旺文社文庫、旺文社、1972年12月10日初版発行、1974年第4刷発行)。
- 入力:j.utiyama 校正:野口英司(青空文庫)。
- この記事の要約・図・読み方の提案はタメラボによるものです。引用は上の本文から短く採りました。
リンク
- 梶井基次郎「檸檬」(青空文庫、作品ID 424、新字新仮名)。本文aozora.gr.jp/cards/000074/files/424_19826.html
- 図書カードaozora.gr.jp/cards/000074/card424.html
声・音・絵
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