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5分でわかる名作#13

富嶽百景(太宰治)あらすじ 富士に、なぜ「お世話になりました」?|5分でわかる名作 #13

この話の要点

  1. 御坂峠の茶屋で過ごす「私」が、富士と人々との出会いを語る話です。
  2. 山を下る前日、「私」は頼まれた二人を外して富士だけを撮影します。
  3. 感謝と身勝手さが残る最後の一枚を、どう読むかが問いとして残ります。

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解説

太宰治の短編『富嶽百景』のあらすじを、結末まで紹介します。まだ読んでいない方は、結末を知ったうえで読むかどうかを選んでください。事実の根拠は青空文庫の本文(新字旧仮名)だけです。見出しはこの記事のためのもので、原作の章ではありません(本文に章番号や章題はありません)。作品内の旅は1938年初秋から、初出は「文体」1939年2・3月号です。

語り手は作品の中の「私」です。作家の太宰治と近い設定でも、この記事では場面の主語を「私」にそろえます。

30秒でつかむあらすじ

心機一転を決めた「私」は、作家の井伏鱒二(いぶせますじ)が滞在する御坂峠(みさかとうげ)の天下茶屋に落ち着き、書き仕事を始めます。目の前の富士と河口湖の景色は「出来すぎている」とけなす一方、三ツ峠(みつとうげ)の霧の中で掲げられた写真の富士には笑い、甲府(こうふ)での見合い、若者の訪問、雪の朝、バスの老婆が指さした道端の月見草を経験します。結婚の見通しが立った山を下る前日、赤い外套(がいとう)の二人に撮影を頼まれた「私」は、二人をレンズから外して富士だけを撮ります。話はそこで終わらず、下山して甲府に泊まった翌朝、近い山々に一部を隠された富士を見る場面まで続きます。

登場人物と、三組の「娘さん」

登場人物と、三組の「娘さん」
登場人物と、三組の「娘さん」
  • 「私」:作品の語り手。書き仕事のために御坂峠の天下茶屋に滞在します。
  • 井伏鱒二:作家。「私」より先に天下茶屋で仕事をしていて、三ツ峠登山と甲府の見合いに同行します。
  • 三ツ峠の茶店のおばあさん:霧の頂上で、富士の大きな写真を掲げる女性。御坂の天下茶屋とは別の店の人です。
  • 御坂の茶屋のおかみと、十五歳の娘:天下茶屋の親子。娘は雪の富士を教え、原稿をそろえます。本文に名前はありません。
  • 甲府の娘と、その母:見合いの相手と母。結婚の相談の相手です。茶屋の娘とは別人です。
  • 新田:吉田の郵便局に勤める25歳の青年。「私」を訪ねてきます。ほかに田辺ら若者も登場します。
  • バスの老婆:河口村からの帰りのバスで隣に座り、道端の一箇所を指さす女性。
  • 赤い外套の二人:下山前日に撮影を頼む旅行者。職業は本文では「私」の推測にとどまり、確定しません。

混同しやすいのは、御坂の茶屋の娘/甲府の娘/旅行者の二人と、三ツ峠の茶店/御坂の天下茶屋です。動画でも初出の札と呼び名で区別しています。

旅立ちと、御坂の出来すぎた富士

冒頭で「私」は、富士の形への評言を並べます。ここで大事なのは、評価が最初から一様ではないことです。十国峠で雲の上に現れた頂には笑い、東京のアパートの窓から見えた小さな富士には苦しい記憶が結びついています。「最初は富士が嫌いだった」と一方向にまとめると、この複数ある見方が消えてしまいます。

1938年の初秋、「私」はかばん一つで旅に出て、井伏のいる天下茶屋に落ち着きます。二階の廊下からの富士・河口湖・近くの山々の景色は整いすぎていて、好まない、と語ります。景色そのものへの毒づきと、のちの場面で同じ山へ向ける言葉とのずれが、この作品の読みどころの一つです。なお、原文に出る山の角度や標高の数値は、現代の実測値の説明としては扱いません。

霧の写真と、見合いの写真

二つの写真
二つの写真

御坂へ来て二、三日たった晴れた午後、「私」は井伏と三ツ峠に登ります。借り物の短いどてら(綿を入れた防寒着)と麦藁帽という不格好な姿です。頂上は濃霧で、そこの茶店の老婆が富士の大きな写真を掲げます。二人は番茶をすすりながら笑い、「私」は地の文でこう語ります。

いい富士を見た。霧の深いのを、残念にも思はなかつた。(三ツ峠の茶店の場面)

これは二人のせりふではなく、「私」の語りです。写真を見せてくれた人の親切さごと、「いい富士」として受け止めています。

そのあと「私」は、井伏に連れられて甲府へ見合いに行きます。背後の高い位置には、富士の山頂の火口を上から見おろした写真(鳥瞰(ちょうかん)=上から見おろした写真)が掛かっていました。「私」はそれを見上げ、体を戻す際に相手の娘をちらりと見て、この人と結婚したいと思います。写真に運命を決める力があったのではなく、そう考えたのは「私」です。三ツ峠の「全景の写真」と甲府の「火口を上から見た写真」は、別の二枚として区別してください。

青年たち、月夜、雪の朝

御坂での仕事は9月から11月15日まで続きます。友人との出来事を「富士も俗なら、法師も俗だ」と振り返る一方、吉田の郵便局に勤める新田が訪ねてきた時には、黙って立つ富士を偉いもののように感じます。人に会うたびに必ず見方が良くなる、という単純な話ではありません。

吉田の町(富士の麓の町)へ出た月夜には、青い富士の前を気取って歩き、財布を落として自分で戻って拾います。うっとりした気分に、小さな落ちが付くのが「私」らしい語りです。

ある朝、御坂の茶屋の十五歳の娘が雪の富士を見せに「私」を起こします。「私」は喜びながら、雪がなくてはだめなのだ、ともっともらしく教え直します。褒めても気取りは残ります。そのあと「私」は月見草の種を集めて茶屋の背戸(裏手)にまきますが、来年花が咲いたかどうかは本文にありません。

「富士には、月見草がよく似合ふ」の前後

バスの両側と、道端の一輪
バスの両側と、道端の一輪

種まきの理由は、少し前のバスの出来事として回想されます。河口村(河口湖のほとりの村。湖の名前や、新田の勤める吉田の郵便局とは別です)で郵便物を受け取った帰り道、ほかの乗客は富士の側を眺めるのに、隣の老婆だけが反対側の断崖(がけ)を見つめていました。「私」は勝手に共感し、老婆の心を理解した気になります。

その時、老婆がひとこと言って、道端の一箇所を指さします。

「おや、月見草。」(バスで老婆に出会う場面)

バスは過ぎていき、ちらりと見た黄金色の花一つが目に残ります。そして「私」はこう結びます。

富士には、月見草がよく似合ふ。(同じ場面)

気をつける点が二つあります。一つは、富士と反対側なのは老婆が見つめていた断崖で、そのあと指さした花の位置は「路傍(道端)の一箇所」とだけ記され、方角や崖際かどうかは書かれていないことです。動画の挿絵で岩肌と同じ窓に花を置いているのは構図上の選択で、本文が決めた地理ではありません(上の図では花を別枠にしています)。もう一つは、老婆の悲しみや人生は「私」の思い込みとして語られるだけで、事実としては分からないことです。「似合ふ」は「にあう」と読みます。

進まない仕事と、眺める人の限界

10月のなかばを過ぎても仕事は進まず、「私」は人が恋しくなります。天気を確かめる夜や、芸術への迷いも語られます。

10月末には、絵葉書を選ぶ女性たちの一団を二階から見ます。本文の「遊女」という語は、売春の仕事をしていた女性を指します(語の意味は辞書で確認したもので、女性たち一人ひとりの経緯や心情は本文から確定できません)。「私」は苦しくなり、彼女たちの幸福を富士に頼むように願いながらも、実際にできることは何もなく、子供と犬を連れて立ち去ります。女性たちが救われたとは書かれていません。「眺めて共感するだけでは届かない」という距離が、この回の中盤に影を落とします。

結婚の相談と、茶店の暮らし

結婚の話が進む頃、故郷からの援助は見込めないことが分かります。「私」は甲府へ行き、見合いの相手(甲府の娘)とその母に事情を正直に話します。母は、大事なのは愛情と仕事への熱意だと答えます。故郷の援助がないことは、家が結婚に反対したこととは分けて読んでください。

帰り道、甲府の娘は富士にもう雪が降ったかを尋ねます。これは御坂にいる「私」への心遣いの問いとして、本人の言葉で示されます。肩たたきのやりとりなど、細部は原文でどうぞ。

御坂に戻ると、茶屋の娘が原稿を番号どおりにそろえる役目を楽しみにしていると話します。「私」はそれを純粋な声援のように受け止めます。ところが別の場面では、娘が自分を恐れているように見えたことに気づき、二人きりの時はなるべく部屋を出ないようにします。娘の気持ちは「私」がそう受け止めたもので、恐怖の原因や恋愛感情は本文にありません。

花嫁姿の客のあくびを「私」と娘が評する小話もあります。花嫁が再婚だというのは登場人物の推測で、事実ではありません。やがて先輩の世話で式を挙げられる見通しが立ち(式そのものの場面はありません)、茶屋のおかみが寒さを気遣って炬燵(こたつ)を用意してくれます。

結末:写真から外れた二人、その後の甲府

最後の撮影範囲
最後の撮影範囲

山を下る前日、どてらを二枚重ねた「私」に、お揃いの赤い外套の二人が撮影を頼みます。二人は寄り添って立ちますが、「私」の手は震え、笑いをこらえます。そして二人をレンズから外し、富士だけを画面いっぱいに狙います。地の文には、富士への別れと礼が続きます。

富士山、さやうなら、お世話になりました。(下山前日の写真撮影の場面)

「さやうなら」は「さようなら」です。この礼を声に出したのか、心の中で言ったのかは、本文に書かれていません。動画でも、吹き出しや心の声の演出は付けていません。二人は撮影後に声をそろえて礼を言い、家で現像して驚くだろうと「私」が予想します。実際に驚く場面はありません。

翌日、「私」は山を下りて甲府に一泊し、翌朝、宿の欄干にもたれて富士を見ます。近い山々に下部を隠され、三分の一ほど顔を出した富士を、酸漿(ほおずき)にたとえます。作品は写真撮影では終わりません。ここまでが結末です。

読み解きの問い

答えを一つに決めず、本文の根拠と分けて考えられる問いを置きます。

  • 富士の姿と「私」の言い方は、同じように変わるか:霧で見えない日にも「いい富士」と語り、雪の日には偉そうに教え直します。姿の変化と評価の変化は、必ずしも連動しません。
  • 老婆や娘の気持ちを、「私」はどこまで知っているか:バスの老婆への共感も、娘の恐怖への気づきも、「私」の受け止め方として語られます。本人の言葉で確かめられる範囲は限られます。
  • 最後の礼と、二人を写さない行為をどう読むか:この動画では、茶屋や甲府で受けた親切も重ねて礼を読む見方を示しました。ただし本文が礼の理由を一つに説明しているわけではありません。感謝しながら他人を写真から外してしまう身勝手さも、同じ場面に残ります。

よくある問い

「私」は最初から富士が嫌いですか?

御坂の景色はけなす一方、冒頭の十国峠の富士には好意的です。全部の富士を一律に嫌うわけではありません。

茶店の娘と結婚するのですか?

本文の結婚相手は甲府の見合い相手で、御坂の茶屋の娘とは別人物です。作中では結婚式を挙げられる見通しまでが語られます。

「月見草」は白い花ですか?

この本文では黄金色と書かれています。植物の種名を確定する話には広げず、作品中の色として読んでください。

最後の写真には何が写りますか?

「私」は二人を外して富士だけを撮ります。二人が現像して驚く場面は描かれず、「私」が予想するだけです。

作品は写真撮影で終わりますか?

終わりません。下山して甲府に泊まり、翌朝に富士を見る場面が続きます。

「百景」は百枚の写真という意味ですか?

本文は百枚の写真を並べたものではありません。題名の由来や作者の意図は、本文だけでは確定しません。

出典

動画とこのページで使った事実・数字の出どころです。

  1. 太宰治『富嶽百景』(青空文庫)aozora.gr.jp/cards/000035/files/270_14914.html
  2. 青空文庫 図書カード No.270aozora.gr.jp/cards/000035/card270.html

声・音・絵

  • 声:Irodori-TTS(合成音声)
  • BGM:「茶屋にて」MATSU/「縁側」siroimu/「百花繚乱」/「藁の記憶」(OpenTracks)
  • フォント:Shippori Mincho、IBM Plex Sans JP、M PLUS Rounded 1c(SIL Open Font License 1.1)

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